ジェリーフィッシュレイク。
パラオ共和国にある汽水湖で、その名の通りクラゲが全域に大繁殖していることで知られている。
視界いっぱいに漂うクラゲの中を泳ぐために、海外から足を運ぶ人間も少なくはない。
クラゲは “刺胞動物” というグループに属している。
多くのクラゲはその名の由来となった刺胞—毒を帯びた刺突—で獲物を捕らえており、なかには人命に関わるほど強力な毒を持つ種も存在する。
しかし、ジェリーフィッシュレイクに住むクラゲ達の毒性は極めて弱く、例え水着だけで群れをかき分け進んだとしても、全身が腫れ上がるようなことはない。
それは、この湖が地下で海とつながった汽水湖ではあるものの、水深15m以深には毒性の強い硫化水素の層があり、クラゲを補食する外敵が侵入することがないためだと考えられている。
外敵のいない隔離された空間で、数百年、数千年を 過ごすうちに、餌となるプランクトンを狩るため以上の毒性を失ったのだ。
「クラゲってあまり詳しくないんです。あれって変な魚ですよね」
地元のマーケットでクラゲのイラストをぼんやり眺めていると、旅行者らしき日本人が話しかけてき た。
この暑いのにボートコートを着込んでいる。
おそらくこれからジェリーフィッシュレイクに向かうのだろう。
くらげ。もちろん、魚ではない。
大まかな定義では、刺胞動物門に属する動物のうち 水中で浮遊生活をする種の総称。
他によく知られる刺胞動物はイソギンチャクなど。
昔は水槽での飼育は難しかったようだが、最近は水族館やペットショップでも多くの種類を見ることができるようになった。
半透明の体でふわふわと水中を漂うさまはなんとも お気楽で「こいつら、何も考えていないんだろうなあ」などと優しい眼差しを送るファンは多い。
事実、ほぼ全てのクラゲは何も考えてはいないのだろう。
そもそも、彼らには脳がない。
そんな昔と比べればずいぶん身近な存在となったクラゲだが、いまだに多くの人が知らないこともあ る。
クラゲは、皆がクラゲと聞いて想起するあの姿では生まれてはこない。
まず前提として、クラゲは卵で産まれる。ゾウリムシやアメーバのように分裂するわけではない。
では、卵から孵ったクラゲはどのようにして我々が想起するあの姿となるのか。
幼生はすぐに珊瑚や岩肌に根付き、ポリプというイソギンチャクのようなものになる。
ポリプはさらに姿を変えて、お椀を重ねて積み上げたような姿となる。
そう『積み上げた』だ。
やがてその1枚1枚が、かさぶたがはがれる様に分離して泳ぎだす。それが新たな1体。
親クラゲと卵の関係は、クラゲが無性生殖である以上、遺伝情報はエラーを起こさない限り同一とな
る。
それは細胞分裂に近い命のコピー。
では、1つの卵がいったんポリプ上になり、多数のクラゲに分裂するというのはどのように理解するべきか。
1卵生双生児(実際には2体どころではない数に分裂するのだが)のようなものだろうか。
それでもやはり、遺伝情報は同じ。命のコピー。
この湖に飽和する命は、そのほとんどが遺伝情報を同じくするコピーなのかもしれない。
たとえ数万の個体がいたとしても、遺伝情報が統一なのであればそれはただのコピーなのかと考える一方で、ヒトの一卵性双生児には各々の心があるじゃないかと反論する自分もいる。
個とは心の数なのか。では、脳すらないクラゲに心はあるのか。
そもそも個とは何か。
遺伝情報の相違? いや、このクラゲ達はみな同じ存在だ。
心の存在? このクラゲ達には脳すら無い。
もし、クラゲにも心があって、それはポリプの状態で完成しているのだとしたら、それらが分裂するときには心はどうなるんだろう。
おそらくは、分かれたその瞬間に心も二つに。そこから先は別々の成長を遂げる。
「もし『クラゲになりたい』って言ってる人がいたら、どうしてだと思います?」
振り返ってボートコート氏にたずねてみる。
「何も考えていなさそうでいいですよね」
ボートコート氏はクラゲのイラストを眺めたままでこたえる。
そうだな、普通はそう考えるのだと思う。
個について心について、欲について、それもあさましい独占欲について、そんなことを考えた上でクラゲを想うだなんて、きっと理解できる人の方が少ないんだろう。